「おおきなてのひら」  夕日が窓から差し込んで、部室をオレンジに染め上げる。ギターやドラムが、その光を反射して 目も眩むほど輝く。  そんな光景が、私は密かに好きだった。 「? なんか嬉しそうだな、律」  いつの間にか笑っていたのだろうか。澪がこちらを見て不思議そうに首をかしげた。 「べっつにー」  私ははぐらかすように笑みを浮かべる。  ……澪と二人きりの部室。唯とムギは二人仲良くトイレに行ってしまった。  練習は一時中断となり、私と澪はぼーっと椅子に座って待機していた。  ちょっとした空き時間だからか、澪も何もせずにただ窓から外の景色を見ている。  私はちらりと澪の横顔を見た。  白い肌。整った目鼻立ち。長いまつげ。そして、夕日と同じ色に輝く、艶やかな黒髪。 「……やっぱり、どうかしたのか?」 「いや、なんでもないよ」  私の視線に気づき、澪は再度問いかけてきた。私はへらへら笑いながら、手を振った。  ヘンなヤツ、と澪は少し呆れたように笑う。  それは、私にとっては見慣れた笑顔だ。私をよく知っている澪が、私に対して浮かべる 遠慮のない表情。  唯やムギは、澪のこの顔を知らない。  そんな小さなことに、私はちょっと優越感を持っている。 「二人とも、遅いな」 「唯なんかは長そうだよなー。トイレの鏡の前で、何十分もおしゃべりしてそうな気がする」 「はは、それ、分かる」  ふわり、と髪を宙に舞わせて、澪が笑った。シャンプーのやわらかな香りが、私の鼻腔に届いた。 「なんなら、私たちだけで合わせておくか? 律、さっきのところまた走ってたし」 「んー、いや、いいよ。もう少し、休んでたい」  今の言葉は正確には違った。  休んでいたいのではなく、もう少しこの空気を味わっていたいのだ。  オレンジに染まる部室。練習後のちょっと気だるい感じ。窓から吹く涼やかな風。そして、隣に 座る澪のかすかな息づかい――  こんななんでもないシチュエーションを、私が好きなことを澪は知らないだろう。当然だ、言っ ていないし気づかせてもいないからだ。  軽く目を細めて、体の力を抜く。  ああ、気持ちいいな。なんだかこのまま眠ってしまいそうだ。 「おーい」  ……そんな私を、澪の声が遮った。  目を開けると、彼女はひらひらと私の目の前で手を振っている。 「眠そうにして、どうしたんだ。熱でもあるのか?」 「そんなんじゃないって」  まったく、私が少し黄昏れてちゃ悪いか。  なんだかちょっと癪にさわって、私は澪の手を掴んだ。 「な、なんだ」 「……」  別に何をするでもないのだが。  なんとなしに、私は自分の手と澪の手を重ねた。  やっぱり澪の手のひらは大きい。別に私だってそんなに小さいほうではないが、それでも澪と手を 重ねると彼女にすっぽりと収まってしまう。 「な、なに?」 「んにゃ。澪ってやっぱ、手、大きいよな」 「うっ。……わ、悪かったな。どうせ私は女らしくないよ」  そういえば澪、手が大きいことを気にしてるんだっけ。というか、昔私がそのことで澪をからかっ たから、そのせいだろうけど。  私は手を重ねたまま、にぎにぎと澪の手を触った。 「……な、なに?」  ベースを弾くようになってしばらく経ったからか、澪の指の皮は少し固くなってきているようだ。 「ははっ、おもしれー」  その割にはぷにぷにしてる箇所もあったりして、固いところと感触を比べているうちに楽しくなっ てきた。 「…………」  そうしているうちに、拗ねたみたいに澪が頬を小さく膨らませた。軽く涙目にまでなっている。  少しだけ――ほんの少しだけだけど、私はその顔に目を奪われた。  突然の、衝動。 「な、澪」 「……なに」  不機嫌らしい澪に構わず、私は言った。 「キスしよう」 「は、なに言って――」  重ねたままの手を引き寄せ、顔を近づける。二の句を継ごうとした澪の口を塞ぐみたいに、強く口 づける。  彼女の唇は、この世に存在する何よりも柔らかいと思う。舌でちろりと舐めとると、さっきお茶の ときに食べたマドレーヌの味がした。  澪の瞳に映る私が見える。おそらく彼女も私の瞳に映っている自分を見ているのだろう。なんだか、 お互いが繋がったみたいで嬉しい。  しばらく経ってから、ゆっくりと唇を離した。一体何分キスしてたんだろう。たった十秒のことか もしれないし、十時間以上だったかもしれない。 「ばっ、ばっ、ばっ、バカ律っ!」  澪は噴火するんじゃないかってくらい顔を真っ赤にして、怒鳴った。 「ががが学校では、そういうのしないって、言っただろっ! 人に、見られるからってっ!」  澪は慌てて周囲を見回し、誰もいないことを確かめた。 「あー、うん、言ったね」 「じゃあ、どうしてっ! 唯たちはちょっと席を立っただけなんだぞっ!」 「まぁ、なんとかなるんじゃない?」 「なるかっ! ああ、もしバレたら、は、恥ずかしくて、死にそうだ……っ」  彼女がそんなことを言うと、唯とムギにバレたらバレたでそれはいいかなぁ、と考えたりもする。一体 澪の顔がどこまで赤くなるのか見てみたい。 「またそんなニヤニヤして……! もう、知らないぞっ!」  ぷい、と澪は顔を背けてしまう。  でも。そんなこと言いつつも、私たちの手は重なったままだった。澪は手を離そうとしていない。 「…………」  自然に、頬に微笑みが浮かぶ。  澪の白くてしなやかな手を軽く握る。  からかう気持ちもなく、純粋に私は言った。 「澪の手」 「……なに」 「大きいけど――私は綺麗だと思うよ」  澪は黙った。黙ったまま、私の手を、ちょっと強く握り返した。  ……そのとき、部室の外からわいわいと声が聞こえた。唯とムギが戻ってきたのだろう。 「おっと、ギリギリセーフってところかな。……にしても、二人とも、ホントに遅いな〜」  そうして私は立ち上がろうとした。が、できなかった。 「律の手だって、固い」  澪が、私の手を離さなかったからだ。 「でも、なんだか、安心する」  彼女はいまだに顔を背けたままだったが――多分、微笑んでいたと思う。 「そっか」  私がそう返したのと同時、バタン、とドアが開かれて、唯とムギが笑いながら部室に入ってきた。  それでも、私たちはしばらく――  手を繋いだままでいた。  そうしてまた練習が始まった。  温かな夕日のオレンジは、私たちを見守ってくれてるみたいに、いつまでも窓から差し込んでいた。  澪のおおきなてのひらみたいだな、と思った。