「やさしいひと」 「――梓は、澪のこと、好きなのか?」  突然、律先輩にそんなことを聞かれた。 * * *  放課後――部室にて。  教室の掃除が終わり、ギターを持って部室に行くと、そこには律先輩がいた。いや、律先輩 しかいなかったというほうが正しいのだろうか。  基本的に唯先輩なり紬先輩なり……そして澪先輩なり、大抵二人以上は部室にいる。うちの クラスのホームルームは、終わる時間が遅いのか、大抵私は三番目以降となる。  だから、誰かと二人きり――とりわけ律先輩となんて初めてのことだった。  紬先輩がいないのでまだお茶もお菓子もない。律先輩は机に頬杖をついて、足でエイトビー トを刻みながら何か考え事をしているようだった。  私は律先輩とはあまり仲が良くない、と思う。別に私は律先輩が嫌いではないし、彼女も私 を嫌っているわけではないだろう。ただ単に、仲の良さが“二人きりで間が十分持つほどのレ ベルではない”というだけだ。  だから、挨拶をして、ギターを下ろして椅子に座ってしまうと、途端に気まずい沈黙が訪れ てしまう。  何か、何か話題はないだろうか。  この際、ドラムの走りがいつになっても直らないことを注意すべきだろうか。いやいや、そ れでは雰囲気を更に悪くするだけではないだろうか。……でも、冗談めかして言えば笑ってく れるかも?  などと思考を巡らせているときだった。 「――梓は、澪のこと、好きなのか?」 「は、い?」  いきなりそう聞かれた。何の脈絡もない。 「……い、いや、その、」  私が聞き返したのが意外だったのか、律先輩はしばらく口をもごもごとさせて、何か呟いてい た。  そのまましばらく黙ってしまう。  私がもう一度聞き返そうか迷いだしていたとき、再び律先輩が言った。 「憂ちゃんから、聞いたんだ」 「憂から?」  うん、と律先輩は頷いた。私の目を見ずに。 「梓が、澪のこと、好きだって」 「…………」  そう言えば、憂にそんなことを言った記憶がある。  最近軽音部、どう? と憂に聞かれて、うん、ちゃんと練習はするようになったよ、と答えて―― そこから軽音部の四人のメンバーの話になって、私は、やっぱり澪先輩のこと好きだなぁ、と言 った気がする。  律先輩にそのことを話した憂は、悪気はないと思う。多分、憂と律先輩の普通の会話の中で言 われた言葉で、それを律先輩が“勘違い”しただけ。  どう答えていいのか、私はしばらく悩んだ。  律先輩はその間、ちらちらと上目遣いで、珍しく不安そうな顔をして私を見ていた。 「……はい、その。澪先輩のことは、好きです」 「そ、そうなのか」  律先輩はぱっと笑顔を浮かべた。随分とぎこちないものではあったけど。 「な、ならいいんだよ。いやほら、こう見えても、私と澪って幼なじみじゃん? 結構心配して たりするんだ。……でも、梓なら大丈夫。うちの澪を安心して嫁に出せるなぁ、あっはっは!」  乾いた笑い声だった。とてもわざとらしかった。気のせいか、彼女の目頭に涙が溜まっている 気がした。 「梓。おせっかいかもしれないけど、一応私、澪のこと結構知ってるからさ。梓が本気なら、色 々と手伝ってあげられるよ。なんなら、お見合い会場的なものをセッティングしてあげるぜー!」  律先輩は立ち上がって、私の横に立ち、ぽんぽんと肩を叩いた。 「だから、どんな相談でもどんとこいだ!」  そう胸を叩く律先輩をよそに、私は別のことを考えていた。  ――澪先輩が言っていた通りだ。  いつでもふざけている律先輩。だけど、本当は“調和”をよく考えている人。  ライブのとき。澪先輩がボーカルに選ばれ、緊張していたところに、律先輩は優しくフォロー をしてあげたらしい。  合宿のときもそう。澪先輩曰く、律先輩は私のことを彼女なりに心配していたらしく――早く 軽音部の雰囲気に慣れるよう、思い切り遊ぶようにし向けたのだとか。  律先輩にそんな意図はないのかもしれない。でも彼女のおかげで、軽音部が楽しい雰囲気にな っていることは、入部して一年も経っていない私でも分かる。  今も、そうだ。律先輩は、私のために澪先輩のことを話してくれようとしている。  とても、やさしいひとだ。  だから―― 「……ふふ」  私は笑みを浮かべた。 「あ、梓? どうかした?」 「律先輩。勘違いしてます」 「か……かんちが、い?」  がたり、と部室のドアから音がした。私は構わずに続ける。 「私は、澪先輩のことが好きです。でも、その“好き”は、なんというか憧れの“好き”です。 だから律先輩、安心してください」  そう言った瞬間、律先輩はかすかに“安心”の感情を込め、笑った。 「そ、そっか……ご、ごめん。なんか勘違いしちゃったな。あ、あはは……」  彼女はぽりぽりと頭をかいてから、 「……ん? って、なんで私が安心するんだよ!」  がー、と顔を赤くして怒鳴る。  そんな律先輩を見ていると、また笑みがこぼれた。 「私も空気は読めます。澪先輩と、律先輩の中に入れるほど、鈍感じゃないです」 「うう、なんだよ、それ……!」  少し考えて。  私は、結局言ってしまうことにした。  多分、これは律先輩にとっても――そして、“彼女”にとってもチャンスだから。 「律先輩、澪先輩のこと、好きなんですよね? 私とは違う“好き”の意味で」 「……っ!」  律先輩の表情が、止まった。  心臓ごと停止してしまったのではないかと思うほど、固まっていた。 「ち、ちが……」  律先輩は、ゆるゆると首を振った。頬を紅潮させているのに、その唇はどこか怖がっているよ うに震えている。 「……好き、なんですよね。大丈夫ですよ、分かってますから」 「わたし、は……軽音部、大事、だから……」  私は今更気づいた。律先輩が躊躇っていたのは、軽音部があるからなのだ。律先輩と澪先輩の 今の関係が壊れたら、そのまま軽音部の崩壊へと繋がりかねない。  自分の感情と、みんなの楽しさを優先して……結局、律先輩は後者を選んだ。  多分、それは褒められたことなんだと思う。  でも。 「そんなことで壊れる関係なら――結局、軽音部もそれまでだったということだと思います。で も、私は軽音部がそんなヤワなものだとは思えません」 「だけど……わたし、は……今のままでも……澪が笑ってくれるから……っ」 「……律先輩がそんなだったら。やっぱり、澪先輩のこと、盗っちゃおう、かなぁ……?」  私はできるだけ低い声を作って、邪な流し目で律先輩を見た。 「――っ!」  律先輩は―― 「……好き、だよ。私、澪のこと、好きなんだ……っ! だから……だから、澪のこと、盗らな いで……!」  涙をこぼした。彼女の肌に痕を残しながら、大粒の滴が伝う。  律先輩はそのままがしりと私の肩を掴む。すごい力だった。  けれどそれは私のことを止めるためではなく、なんというか、すがりついてくるような力の込 め方だった。  このとき。  私の恋は、終わったのだと悟った。 「律先輩。私、今日尊敬する人が一人増えました」 「え……?」  溢れる涙を拭おうともしない律先輩に、微笑みかける。 「私、この部に入ってよかったです」 「なに言って……?」  律先輩の腕を外し、私は椅子から立ち上がった。 「今日はもう帰りますね。明日はちゃんと来ます。結果はちゃんと聞かせてくださいね」 「え、と、あ、梓……」  先ほど下ろしたギターを担ぎ直し、鞄を持ってドアへと歩く。  律先輩の何かの言葉が聞こえたが、無視して部室から出た。 「――ぁ」  廊下に出てすぐ。  ドアの横、部室からは見えない位置にいた澪先輩と、目が会った。おそらく、今までの会話を 聞いていたのだろう。先ほどドアのほうで音がしたが、やはり澪先輩だったらしい。  澪先輩は私を見て、申し訳なさそうな目をした。  私は微笑みを作って、澪先輩に言った。 「早く、行ってあげてください。律先輩、待ってますから」 「……梓」  私は澪先輩の顔を見ず、そのまま階段を下りた。  後ろから“ありがとう”という声が聞こえ――澪先輩は私を追いかけては来ず、部室の中に入 ったようだった。  分かっている。分かっていたことだ。  でも。  その結果を知ってしまうと、急に涙が溢れてきた。  さっきまで上手く笑みを作れていたのが信じられない。まるで涙腺が壊れたように、涙が溢れ て止まらなかった。  律先輩も、澪先輩も、やさしいひとだ。  ――私も、澪先輩が好きだった。律先輩に言ったのは嘘だった。  本当は、本当に澪先輩が“好き”だった。恋人になりたかった。  でも、さっき律先輩に言われて、気づいてしまったのだ。  私が好きな澪先輩は、律先輩に対して、呆れ顔をして、やれやれと苦笑して――二人、楽しく 笑い合う。  そんな、律先輩と一緒にいる澪先輩が好きだったのだ。  だから、この恋は初めから終わっている恋だった。  今日、きっちりとけじめをつけられて、よかったと思う。  これでよかったのだ。どうしようもないほどの、ハッピーエンド――  なのに。どうにかして、律先輩と澪先輩の仲が壊れて……澪先輩が私に振り向いてくれる。そ んな未来を望んでしまう醜い自分が、心のどこかにいた。  そんな惨めな自分が嫌で、私は更に泣いた。  運良く、廊下を歩いているときに誰とも会わなかった。涙を流しながら歩いているところを見 られたら、心配されかねない。  あてどなく歩いていると、結局自分の教室に来てしまっていた。  教室には誰もいなかった。ただ、窓から差し込むオレンジ色の光に満たされていた。  別に忘れ物があったわけではない。ただ、涙を流したまま家に帰る気はしなかったし、どこか でゆっくり少し自分の熱を冷ます時間が欲しかったからだ。  自分の椅子に座り、ギターを立てかけた。  そのまま机に突っ伏そうとしたときだった。  廊下から、早歩きな足音が聞こえた。すぐにドアが開かれ、誰かが入ってくる。 「あずにゃん……」  唯先輩だった。いつも浮かべている120%な笑顔を曇らせ、心配そうな顔でこちらに近づいて くる。 「……ごめんね、二人から聞いちゃった」 「そう、ですか」  慌てて流れていた涙を拭き取り、笑顔を作る。多分、上手く夕日に隠れて唯先輩からは見えなか ったと思う。 「二人とも、よかったですよね。私、すごくお似合いだと思います」 「……あずにゃん」 「私、嬉しいです。やさしいひとたちだから。これで軽音部も、もっと仲良くなれそうですよね?」 「…………」 「あ、でも、練習中にまでイチャイチャされるのはちょっと嫌ですね。ちゃんとけじめをつけても らうようにしましょう。でも、きっと澪先輩ならだいじょ――」  ――突然のことだった。  近くまで来た唯先輩が、私のことを、抱き寄せたのだ。 「せんぱい……?」 「あずにゃんは、やさしいね」  唯先輩の腕の中は、本当に温かかった。憂が言ってた通りだ。なんだか安心できて、温かすぎて、 泣けてきてしまうような―― 「……やさしく、なんて、ない、です」 「そんなこと、ないよ」 「ちがう、んです。ふたりの、かんけいが、こわれちゃえば、いいのに、って、おもっちゃう、ん です。み、みおせんぱいが、わたしのこと、すきになってくれるように――」  唯先輩は、更に強く私のことを抱きしめた。 「ううん。あずにゃんは、とってもやさしいひとだよ。嫌な人なら、きっと今頃律っちゃんと大げん かしてるもん。軽音部解散の危機だったよ」 「でも、わたし――」 「――大丈夫。大丈夫だから、あずにゃん。私が、護ってあげるね」  これからの明日が、私には想像できなくなっていた。唯先輩の“大丈夫”という言葉も、何が大丈 夫なのかは分からなかった。  だけど。唯先輩の腕は、あったかすぎて、やわらかすぎて――  私は目を閉じて、唯先輩にすがりついた。  枯れたと思った涙が、まだ溢れてきた。  私はしばらく、大声で泣き続けた。 * * *  翌日。  少しだけ、部室に行くのが怖かった。  でも、勇気を出してドアを開けた。  部室の中には律先輩と澪先輩がいた。 「おー、梓。元気?」  律先輩はいつも通り、快活な笑顔で挨拶をしてくれた。 「……梓、大丈夫か?」  澪先輩は少し心配そうな顔で言った。  多分、私の目が若干腫れぼったいだろうから、そのせいだろう。 「だいじょ――」  私が笑顔で返そうとした、そのとき、 「だーいじょうぶだよっ! あずにゃんは今日も元気ぎゅんぎゅん! わたしとさらにラブラブだ よ〜!」  横にいた唯先輩が、大声でそうかぶせてきた。そのまま、ぐりんぐりんといつもより激しいスキン シップをしてくる。  ……私は唯先輩と一緒だった。唯先輩が、わざわざ私のクラスの前で待ってまで、部室まで一緒に 来てくれたのだ。 「おーおー、今日も激しいなぁ、このバカップルめ!」  律先輩が楽しそうに笑う。 「こら、律ったら……」  澪先輩は少し困っていたが、唯先輩と私の様子を見て、安心したように微笑んでくれた。  それからすぐに、紬先輩が部室にやってきた。彼女はあらあらまぁまぁと微笑みながら、あっとい う間にお茶とお菓子の支度をしてくれた。  結局、私たちはいつもの空気に落ち着いてしまった。  少し笑顔が柔らかくなった、律先輩と澪先輩。  いつもより過剰にスキンシップしてくれる唯先輩。  両手を頬に当てて、にこにこしている紬先輩。  みんな、やさしいひとだ。  昨日は、明日が分からないなんて思ったけれど。  でも、きっと大丈夫。  私は、ぎゅっと抱きついてくる唯先輩に、微笑みを返した。